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会社概要 Outline
- 会社名
- 株式会社 新田
- 所在地
- 〒635-0814奈良県北葛城郡広陵町南郷225-1
- 代表取締役
- 新田 裕
- 設立年月日
- 昭和28年2月
- Tel
- 0745-55-3392
- Fax
- 0745-55-3395
- 資本金
- 2,300万円
- 主要製品
- メンズレディースカットソー、リバーコート
- 主要取引先
- 三共生興ファッションサービス㈱、㈱ヤギ、松村(株)、(株)トーベル、(株)ミナ
沿革
家族経営の町工場
日本で最初にテレビ放送が始まった昭和28年、奈良県北葛城郡広陵町で先代の新田昌雄社長が弟の新田正義とともに、前身となる「新田メリヤス工業株式会社」を創業しました。
メリヤス(莫大小)という書き方は「大小なし」、伸縮性があるので大小などのサイズが必要ない、といった意味と言われています。戦後の当時はまだ衣類が不足している時代であり、海外輸出向けの肌着を請け負っていた当社も、1品番数万ダースという超大ロットが通常の受注数でしたが、「莫大小」の言葉が表すように、製品へのサイズ感、縫製技術、品質の要求は緩く「1枚でも多く縫う」ことが優先される状況であり、納期を間に合わすために徹夜が続く、というような日々を送っていました。
障がいがある人と
働くということ
昭和41年から、今でも続けている障がい者雇用を開始しました。元々は福岡県の田川市の駐在員にお願いして始めた集団就職で、5人雇用するとその中に1人、10人雇用すると今度は3人、という様に、たまたま障がい者の人たちが就職してきました。当時は療育手帳も無く、ただただ県外から団体で就職してきた人という観念で「障がい者雇用」という意識がないまま始まったことでした。
その後何度かあった会社の経営危機の度にその人たちの解雇の話が出ましたが、その時に先代が言った「おかゆさんを食べてもええやないか。一緒に生活してきた仲間やないか。わしの目の黒いうちは首にはせん」という言葉は、「従業員は家族として迎え入れる」という今の㈱新田の雇用の礎となっています。
高級婦人服への挑戦
昭和57年、現社長である新田裕が5年間の修業を終え、会社に戻ってきました。
世の中は、経済の発展が成長安定期となり、物質的な豊かさを求める余裕ができた国民に対しアパレル産業がブランド開発を手掛け、高級衣料品が市場を席巻し始めた時代です。その頃、新田メリヤス工業には新田昌雄の4人の子供たち全員が就職していましたが、突如、海外輸出向け製品の受注がストップし、危機に瀕していました。外界に身を置き、社会の風潮を肌で感じてきた新田裕は「今が会社の転換期だ」と捉え、従業員全員に方向性を問いかけ、その結果、会社は高級婦人服作りへの第一歩を踏み出します。しかし当初は、皆が高級品に対して初心者であり、品質への技術も意識も乏しく、今では考えられないような失敗がたくさん起こりました。
最も苦労した時代であるとともに、現在の㈱新田のクラフトマンシップが産まれた時代でもあります。
株式会社新田の再開
昭和62年、当時の厚生省より重度障害者等多数雇用事業所施設設置等助成金を受け、現在の新社屋が完成しました。障がい者の人たちが働く場所として、広陵町からもたくさんの応援の声を頂き、県外より工場見学依頼が殺到しました。
そして平成元年に、商号を「株式会社 新田」と改めます。
実は、この商号は新田メリヤス工業株式会社の前に使っていた会社名で、先代の人の良さから抱えてしまった大きな借金により廃業となった時のものです。この頃、従業員数は70名を超え、仕事の内容もメリヤスからは大きくかけ離れていたこともあり、「これからも高級衣料品に携わり続ける」という社会に対する決意表明として、この名前をもう一度掲げることを決めました。
まだ、縫製工場ではなく「障がい者雇用の新田」として名前が先行していた時代です。
リバー生産の苦悩
平成5年、その頃既にお付き合いのあった三共生興ファッションサービス㈱様からDAKSのリバーコート生産の話を持ち掛けられました。当時リバー生産は家内工業が主となり、大量生産できる大工場が徐々に減少していたからです。リバーへの知識が無かった当社は、第一にリバー工場の見学を希望しましたが、大半の工場が技術流出の回避から見学を許さず、技術を見て学ぶことができませんでした。
そこで当社の現場責任者であった谷相チーフは、三共生興ファッションサービス㈱の中村課長に協力を仰ぎ、「ザ・リバーシブル」という2冊の本を頼りに、二人三脚で部分縫いの作成という初歩から始めることにしました。不退転の決意で、幾度となくトライアンドエラーを繰り返しながら5ヶ月目を迎えたある日、三共生興ファッションサービス㈱様より突然、リバー量産の話がやってきました。中村課長は会社に「まだ早い。次期シーズンにした方が良い」と諫言しましたが、リバー工場の不足から当社の成長を待てる状況ではなく、結局リバー生地が1反届くと同時に、サンプル作成と量産をスタートさせました。
谷相チーフは「最初の量産500枚は、今でも忘れることができないくらいひどいものだった」と笑います。
一介の縫製工場だった㈱新田はこの時より、「リバーが縫えるカットソー工場」となったのです。