昭和28年2月18日の創業より、67年縫製一筋で今日に至ります。
元々は輸出向けの莫大小(メリヤス)をメインに製造する会社でした。輸出向け製品は大ロットも大ロットで、1回の受注は何万ダースが普通であり、従業員総出で何度も徹夜をしてこなすというのが、ざらにある世界。不良品などお構いなしの質より量の生産を毎日バタバタとこなしておりました。

そんな中、私は外での5年間の修行を終えて会社に戻ってきました。昭和55年のことです。

その時新田は、今まで普通に来ていた受注がある日全く来なくなり、今まで受け身でしか仕事をしていなかった為それを解消する手立てもない、という危機的状況でした。世間の意識が高級品志向に変わっていることを肌で感じていた私は、ある日従業員全員を集めて問いました。

「このまま今まで通り莫大小を続けるのか?
それとも時代の流れである高級衣料品にチャレンジしていくのか?
あなたたちはどうしたい?」

全員の意見が一致しました。「チャレンジする」と答えたのです。

ここから新田の高級衣料品製造の歴史が始まります。しかし、それは苦難の道の始まりでもありました。

今までの製造では気にもしていなかった箇所を問題視される。これは従業員にとって大変なストレスであり、幾度となく挫折を経験しました。従業員の意識を高級品製造思考に変えること、これこそが私が最も苦心したことであります。今だからこそ笑って話をできますが、当時は毎日心労でいっぱいでしたね(笑)

新田には日本人の職人、障がい者、中国人実習生、色んな人たちが集まっています。
その全員が、服づくりという仕事で繋がったことはとても面白いことですし、この会社を守るという私のモチベーションにもつながっています。全員で試行錯誤し、トライ&エラーを繰り返し、クラフトマンシップを持って品質へと挑戦する。そうして今日に至れたことを、誇りに思っています。
また、そんな私たちに我慢して成長を見守って下さった取引先の皆様には感謝してもしきれません。
歳を経るほどに、つながりの有り難さ、偉大さが身に染みています。

そんな私たちが創業より大切にしてきたのは「慈和」の心です。

私が好きな言葉のひとつに「天には星 地には花 人には愛」というゲーテの言葉が有ります。
当たり前にあることの幸せを噛みしめ、初心を忘れず、これからも邁進していきます。

代表取締役
新田 裕

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会社概要 Outline

会社名
株式会社 新田
所在地
〒635-0814奈良県北葛城郡広陵町南郷225-1
代表取締役
新田 裕
設立年月日
昭和28年2月
Tel
0745-55-3392
Fax
0745-55-3395
資本金
2,300万円
主要製品
メンズレディースカットソー、リバーコート
主要取引先
三共生興ファッションサービス㈱、㈱ヤギ、松村(株)、(株)トーベル、(株)ミナ

沿革

HISTORY

家族経営の町工場

日本で最初にテレビ放送が始まった昭和28年、奈良県北葛城郡広陵町で先代の新田昌雄社長が弟の新田正義とともに、前身となる「新田メリヤス工業株式会社」を創業しました。
メリヤス(莫大小)という書き方は「大小なし」、伸縮性があるので大小などのサイズが必要ない、といった意味と言われています。戦後の当時はまだ衣類が不足している時代であり、海外輸出向けの肌着を請け負っていた当社も、1品番数万ダースという超大ロットが通常の受注数でしたが、「莫大小」の言葉が表すように、製品へのサイズ感、縫製技術、品質の要求は緩く「1枚でも多く縫う」ことが優先される状況であり、納期を間に合わすために徹夜が続く、というような日々を送っていました。

障がいがある人と
働くということ

昭和41年から、今でも続けている障がい者雇用を開始しました。元々は福岡県の田川市の駐在員にお願いして始めた集団就職で、5人雇用するとその中に1人、10人雇用すると今度は3人、という様に、たまたま障がい者の人たちが就職してきました。当時は療育手帳も無く、ただただ県外から団体で就職してきた人という観念で「障がい者雇用」という意識がないまま始まったことでした。
その後何度かあった会社の経営危機の度にその人たちの解雇の話が出ましたが、その時に先代が言った「おかゆさんを食べてもええやないか。一緒に生活してきた仲間やないか。わしの目の黒いうちは首にはせん」という言葉は、「従業員は家族として迎え入れる」という今の㈱新田の雇用の礎となっています。

高級婦人服への挑戦

昭和57年、現社長である新田裕が5年間の修業を終え、会社に戻ってきました。
世の中は、経済の発展が成長安定期となり、物質的な豊かさを求める余裕ができた国民に対しアパレル産業がブランド開発を手掛け、高級衣料品が市場を席巻し始めた時代です。その頃、新田メリヤス工業には新田昌雄の4人の子供たち全員が就職していましたが、突如、海外輸出向け製品の受注がストップし、危機に瀕していました。外界に身を置き、社会の風潮を肌で感じてきた新田裕は「今が会社の転換期だ」と捉え、従業員全員に方向性を問いかけ、その結果、会社は高級婦人服作りへの第一歩を踏み出します。しかし当初は、皆が高級品に対して初心者であり、品質への技術も意識も乏しく、今では考えられないような失敗がたくさん起こりました。
最も苦労した時代であるとともに、現在の㈱新田のクラフトマンシップが産まれた時代でもあります。

株式会社新田の再開

昭和62年、当時の厚生省より重度障害者等多数雇用事業所施設設置等助成金を受け、現在の新社屋が完成しました。障がい者の人たちが働く場所として、広陵町からもたくさんの応援の声を頂き、県外より工場見学依頼が殺到しました。
そして平成元年に、商号を「株式会社 新田」と改めます。
実は、この商号は新田メリヤス工業株式会社の前に使っていた会社名で、先代の人の良さから抱えてしまった大きな借金により廃業となった時のものです。この頃、従業員数は70名を超え、仕事の内容もメリヤスからは大きくかけ離れていたこともあり、「これからも高級衣料品に携わり続ける」という社会に対する決意表明として、この名前をもう一度掲げることを決めました。
まだ、縫製工場ではなく「障がい者雇用の新田」として名前が先行していた時代です。

リバー生産の苦悩

平成5年、その頃既にお付き合いのあった三共生興ファッションサービス㈱様からDAKSのリバーコート生産の話を持ち掛けられました。当時リバー生産は家内工業が主となり、大量生産できる大工場が徐々に減少していたからです。リバーへの知識が無かった当社は、第一にリバー工場の見学を希望しましたが、大半の工場が技術流出の回避から見学を許さず、技術を見て学ぶことができませんでした。
そこで当社の現場責任者であった谷相チーフは、三共生興ファッションサービス㈱の中村課長に協力を仰ぎ、「ザ・リバーシブル」という2冊の本を頼りに、二人三脚で部分縫いの作成という初歩から始めることにしました。不退転の決意で、幾度となくトライアンドエラーを繰り返しながら5ヶ月目を迎えたある日、三共生興ファッションサービス㈱様より突然、リバー量産の話がやってきました。中村課長は会社に「まだ早い。次期シーズンにした方が良い」と諫言しましたが、リバー工場の不足から当社の成長を待てる状況ではなく、結局リバー生地が1反届くと同時に、サンプル作成と量産をスタートさせました。
谷相チーフは「最初の量産500枚は、今でも忘れることができないくらいひどいものだった」と笑います。
一介の縫製工場だった㈱新田はこの時より、「リバーが縫えるカットソー工場」となったのです。